私が最近読んだ五木寛之氏の「人間の覚悟」の中から、共感できたところをアップしますね。
ぜひ、みなさんも読んでみてください。
●人間関係というのは、相手につくすことしか考えてはいけないと思うことがあります。
女の子と恋愛すれば、男はひたすらつくす。しかしそれで相手から何か得られるとは最初から期待しないことです。
●人間の縁というものを、あまり密着する非常に難しいことになるのです。
どんなに大事な友だちがいたとしても、いつかはなくなります。永遠の友人というのは、思い出の中にしていません。
人との交流というのは、流れのない池になると腐ってしまいますが、流れている川はきれいでいられます。
●人との付き合い、友情はただ長ければいいというものではありません。
世間は「人脈」という言葉が好きなようで、趣味の人脈、仕事に役に立つ人脈、人脈の場を作る、などとさまざまなことをいいます。
しかし私は、人脈を人とのつながりと置き換えれば、しょせんは自分で作ろうと思って作れるものではなく、
見えない力によってもたらされるとしか思えないのです。
いつも気の合う者同士で群れることがいいとは思いませんし、新鮮な出会いも必要です。
●世の中というのはものすごく不合理で、人間は非条理なものなのだという感覚は常に持っておいたほうがいい。
マイナス思考とは意味合いがちがいますが、まずすべてを最低の線から考えたほうがいいような気がするのです。
●一日生きるだけでものすごいことをしている。人は生きているだけで偉大なことなのだと思います。
その人が貧しくて無名で、生き甲斐菜ないように思えても、一日、一ヶ月、一年、もし三十年も生きたとすれば、
それだけでものすごい重みがあるのです。
人は何のために生きるか、いかに生きるべきか、西洋でも東洋でも、多くの思想家や哲学者がそう問いつづけてきました。
しかし私は、生き方に上下などない、と思うようになりました。
●悪人も善人もいるけれども、とりあえず生きているということで、人間は生まれてきた目的の大半は果たしている。
存在する、生存していくこと自体に意味があるのだ。その中には世間的に成功する人もいれば、失敗する人もいるでしょう。
しかし、いずれにしても生まれてきて自分の人生を生きたということ、ましてや十年、二十年を生きたなら、それだけですごいことなのです。
どんなに惨めであっても、生きていることは大した値打ちがある。
何の命でも、だれの命でも存在するだけですごいことなのです。
今までは、いかに生きたか、ただ生きているだけでは意味がないではないか、そう言われつづけてきたと思います。
しかし、ただ生きているだけで意味がある。
哲学者のようにものを考えなくても、みすぼらしくても生きて存在している。それだけですごいことだと私は思います。
普通は気がつかないだけで、生きるということの大変さに自分で気がつくと、それだけで押しつぶされそうになります。
生きているだけでどれほどの努力があり、他力が必要か、それを自分自身が納得しなくてはならないのです。
人生は孤独で、憂いに満ちています。あらかじめ失うとわかったものしか愛せません。
しかも生まれたときから病気の巣で、十代から老化が始まり、二十歳になったら、人はだれしも死のキャリアなのだと覚悟するべきです
どうですか、結構深い言葉でしょう?
人は、みっともなくても生きているだけでも奇跡なんですよ。
私たちが前に進めなくなるのは、あまりにも「美しく生きよう」とするからです。
他人と比べて、「あの人はすごく恵まれているのに、なぜ自分はこんな人生なんだ」と不満を感じて、
自分の人生の今に目を向けなくなるからです。
過去や未来ばかりにとらわれないで、どんなにしんどくても生き抜くことこそ、宇宙から与えられた生命を輝かすことなのです。